ヒロシマでの対談が記事に(朝日新聞11.5夕刊)
11/2〜6まで、広島へ出かけてきました。
今回の一番の目的は、『ヒロシマ 消えたかぞくのあしあと』本で紹介した鈴木恒昭さんと奥本博さんを引き合わせ、昔話を心ゆくまでしてもらうことでした。
お二人とも90代で、奥本さんは市内の本通にお住まいですが、恒昭さんはお隣の府中町在住。取材時はそれぞれのご自宅を訪ねてお話を聞いたり、喫茶店でお茶をしながらお話ししたりと別々にお会いしていました。
ただ、取材を進めるうちに、〈年齢が一つ違いで二人とも袋町小学校卒業〉、〈どちらも少年時代、広島の繁華街だった本通り沿いで友達やいとこたちと走り回って遊んでいた〉など他にもいくつも共通点があることがわかり、今まで面識はなくても、話をすれば共通の思い出話で良い時間が過ごせるのでは...と感じていたからでした。
しかもお二人とも、大事な家族やお身内を原爆で亡くされている。
また奥本さんは、時おり「鈴木さんとお会いしてみたいものです」と言っておられ、本が完成した今、取材でお世話になったお二人を引き合わせる事こそ、わたしの役目だと思いました。
貴重な時間をわたしだけのものにしてはいけないと思い、新聞社・通信社などにもお声をかけさせてもらいました。
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お二人の体調も考えて、2時間弱... と考えていましたが、会うなり「袋町小学校校歌(戦時中は国民学校)」を元気に口ずさみ、当時の先生のことや、流行った遊びのこと、新天地(繁華街)の怪しく面白かった大道芸の話など思い出話に花が咲き、気がつけば約3時間。
話の中では、原爆や家族・親せきが亡くなった時の心情、また現在の世界状況(ロシアのウクライナ侵攻など)を、原爆を体験した者としてどう感じているかなど、大事なお話も聞くことができました。
記事は、11月5日(土)の朝日新聞夕刊に掲載されました。また朝日新聞デジタルでも読むことができます。ぜひご覧ください。
https://www.asahi.com/articles/ASQC543LLQC2UTNB017.html
p.s.
対談で、新たにわかった事実がありました。奥本さんのすぐ下の妹さんと、恒昭さんが慕っていた従姉妹が、広島県女(当時の広島県立広島第一高等女学校)の1年生(同窓生)だったことです。
もしかしたら、クラスが同じだったかもしれない。仲の良い友達になっていたかもしれない。
でも.... 原爆はその二人のいのちを奪いました。当時、県女の生徒たちの多くが市内の建物疎開作業に駆り出されていたのです(県女の1年生だけでも223人が死亡)。どちらの家族や親族も焼け跡を必死で探し歩いたそうですが、行方不明のままです。
二人が知り合っていたかどうかは、もうだれにもわかりません。
思い出を語る時間は、温かい思いになったり、胸がしめつけられる思いがしたり。複雑な気持ちですが、熱心に語るお二人のお顔を見ていて、(やっぱりこの時間を作ってよかった)と思った秋の一日でした。