滝に打たれる宇根さんを見て
これは2007年8月6日早朝、広島市内己斐の滝での一枚(午前4時半)。
原爆慰霊碑に献水を50年以上つづける宇根さんに同行させていただいたときのものです。当時宇根さんは89歳。滝の勢いで小さな体がグラグラするのを必死でふんばり、身を清め、祈りる姿に、わたしはただただ涙が出ました。やがて宇根さんは清水を汲み終えると、記念式典が催される平和公園へ向かいました。
あの瞬間、わたしは絵本を書く決心をしました。 こうしてできたのが、『ヒロシマのいのちの水』です。
宇根さんを市内で見かけた人が、「絵本のおばあちゃん!」と、声をかけてくださることもあるそう。そんな話をしてくれるときの宇根さんのにっこりした表情、ほんとうにかわいらしい。宇根さんに会う度、元気をもらっています。
原爆慰霊碑に献水を50年以上つづける宇根さんに同行させていただいたときのものです。当時宇根さんは89歳。滝の勢いで小さな体がグラグラするのを必死でふんばり、身を清め、祈りる姿に、わたしはただただ涙が出ました。やがて宇根さんは清水を汲み終えると、記念式典が催される平和公園へ向かいました。
あの瞬間、わたしは絵本を書く決心をしました。 こうしてできたのが、『ヒロシマのいのちの水』です。
宇根さんを市内で見かけた人が、「絵本のおばあちゃん!」と、声をかけてくださることもあるそう。そんな話をしてくれるときの宇根さんのにっこりした表情、ほんとうにかわいらしい。宇根さんに会う度、元気をもらっています。
宇根さんとお好み焼き
2010年11月初旬、ヒロシマへ出かけた折、宇根さんと共にお好み焼き屋さんへ。
宇根さんは92才になった現在でも、広島市内の原爆慰霊碑に、供養の清水をあげてつづけておられます。宇根さんといっしょに、比治山下にあるこのお好み焼き屋さん「通(つう)」に来たのはこれで5回目!? 2年前の絵本の取材時にも、ここでいっしょにお昼を食べたっけ...。
写真の中央が宇根さん、向かって左は、宇根さんを長年陰で支えてきた藤解さん。後ろのお二人は、わたしの広島取材を心身両面で支えてくれている福田さん親子。 いつもあったかく迎えてくれるたくさんの方々と、おいしい「通」のお好み焼きがあってこそ、わたしの絵本はできたのです!
宇根さんは92才になった現在でも、広島市内の原爆慰霊碑に、供養の清水をあげてつづけておられます。宇根さんといっしょに、比治山下にあるこのお好み焼き屋さん「通(つう)」に来たのはこれで5回目!? 2年前の絵本の取材時にも、ここでいっしょにお昼を食べたっけ...。
写真の中央が宇根さん、向かって左は、宇根さんを長年陰で支えてきた藤解さん。後ろのお二人は、わたしの広島取材を心身両面で支えてくれている福田さん親子。 いつもあったかく迎えてくれるたくさんの方々と、おいしい「通」のお好み焼きがあってこそ、わたしの絵本はできたのです!
ヒロシマとアメリカをつなぐ
2010年4月末、アメリカのテキサスへ。ヒロシマとアメリカをつなぐお話の取材(原爆にかかわるお話)。
手紙、メール、電話でテキサスのあるご家族とコンタクトを懸命に取ってはいたものの、会うのは初めて。おっかなびっくりの取材でしたが、約4日間をいっしょに過ごし、語り合い、親交を深めて帰ってきました。相手のことを思う〈想像力〉、それを自分に引き寄せて感じる〈共感・実感力〉。そんなことのたいせつさが感じられる絵本を書きたいと思っています。(絵本は2011年初夏に出版予定)
手紙、メール、電話でテキサスのあるご家族とコンタクトを懸命に取ってはいたものの、会うのは初めて。おっかなびっくりの取材でしたが、約4日間をいっしょに過ごし、語り合い、親交を深めて帰ってきました。相手のことを思う〈想像力〉、それを自分に引き寄せて感じる〈共感・実感力〉。そんなことのたいせつさが感じられる絵本を書きたいと思っています。(絵本は2011年初夏に出版予定)
広島平和記念資料館の存在
ヒロシマの本を書くに当たって、欠かすことのできない大事な場所です。広島の成り立ち、歩みを立体的に紹介。原爆投下前の広島、投下後、原爆の実態・被害状況、その後の復興、平和への取り組み...について、たくさんの貴重な資料を見ることができます。
いつも行く度に、たくさんの小中高生(全国各地からの修学旅行生)の見学姿を目にします。展示をじっくり見て、自分なりの感想をしっかりと胸に刻んでいってほしいと願っています。(右下は、平和公園内の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館。こちらでも原爆に関する貴重な企画展を催している)
いつも行く度に、たくさんの小中高生(全国各地からの修学旅行生)の見学姿を目にします。展示をじっくり見て、自分なりの感想をしっかりと胸に刻んでいってほしいと願っています。(右下は、平和公園内の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館。こちらでも原爆に関する貴重な企画展を催している)
ヒロシマとの縁 海田のヒマワリおじさん
ヒロシマとご縁ができたのは、そのそもこの方と2005/1/17、神戸の震災慰霊の催し会場で出会ったのがきっかけでした。広島市のお隣、海田町から来ていた田原利春さん(海田町ひまわりの会)です。
その場では簡単な挨拶だけで終わったものの、やがて手紙で交流が始まり、親交を深めていきました。以来神戸に出かけるときにヒロシマ・海田へ足を伸ばすようになり、そのご縁で被爆ピアノや宇根さんとの出会いがありました。
海田町の町花はヒマワリ。もう20年以上町でヒマワリを育てています。そして子どもたちに「命のだいじさ」を肌で感じてほしいという思いから、神戸・震災の「はるかのひまわり」も。今はそのお隣に「あいりちゃんのひまわり」も...。
田原さんの日に焼けたお顔は、愛情の深さと熱意の勲章です。それを支える幼稚園や保育園、学校、商工会や地域の方たちにも「かがやくヒマワリ賞」をあげたいくらいです。(ヒマワリは2010/11/6海田で撮影)
その場では簡単な挨拶だけで終わったものの、やがて手紙で交流が始まり、親交を深めていきました。以来神戸に出かけるときにヒロシマ・海田へ足を伸ばすようになり、そのご縁で被爆ピアノや宇根さんとの出会いがありました。
海田町の町花はヒマワリ。もう20年以上町でヒマワリを育てています。そして子どもたちに「命のだいじさ」を肌で感じてほしいという思いから、神戸・震災の「はるかのひまわり」も。今はそのお隣に「あいりちゃんのひまわり」も...。
田原さんの日に焼けたお顔は、愛情の深さと熱意の勲章です。それを支える幼稚園や保育園、学校、商工会や地域の方たちにも「かがやくヒマワリ賞」をあげたいくらいです。(ヒマワリは2010/11/6海田で撮影)
神戸「はるかのひまわり」と うどん屋のおっちゃん
阪神淡路大震災後、神戸復興のシンボルフラワーとなった「はるかのひまわり」。震災のあった年(1995)の夏、このヒマワリを見つけたのは〈うどん屋のおっちゃん〉こと藤野芳雄さんでした。藤野さんは、がれきの中からはるかちゃんを救出した方です。(写真向かって左が藤野さん。右はNPO法人HANDSの岸本さん)
藤野さんは今もずっと、黙々と、「はるかのひまわり」を育てつづけています。春、多くの方々の協力で東灘区住吉川沿いの道のわきに播かれた種、そして育った苗をずっと見守り、夏の炎天下も水やりをつづけ……。
2010年夏には、全国の子どもたちから送られたひまわりの絵を本山第二小学校と本山中学校のフェンスに飾り、道行く人たちに見てもらうイベントも企画しました。「震災をわすれたらあかん。伝え続けなあかん」おっちゃんのひたむきさと深い思い、ほんとうに尊敬です。
藤野さんは今もずっと、黙々と、「はるかのひまわり」を育てつづけています。春、多くの方々の協力で東灘区住吉川沿いの道のわきに播かれた種、そして育った苗をずっと見守り、夏の炎天下も水やりをつづけ……。
2010年夏には、全国の子どもたちから送られたひまわりの絵を本山第二小学校と本山中学校のフェンスに飾り、道行く人たちに見てもらうイベントも企画しました。「震災をわすれたらあかん。伝え続けなあかん」おっちゃんのひたむきさと深い思い、ほんとうに尊敬です。
こうして書き始めました
出版社で子どもの雑誌の編集をしていた15年ほど前、クリエイティブな仕事をするたくさんの方々を見てきました。一つの道を極める人たちの生き方を見ているうちに、「わたしも、なにか、創る人になりたい…!」という感情が。
その後1年ほど外国ですごし、ぼつぼつ書き続け、ようやく自分のスタイルをつかみつつある日々。いろいろな人との出会いや縁が不思議につながり、それを紡ぐようにして、いのちや平和をテーマにした作品が数冊生まれました。ノンフィクションの他にも、楽しい創作ものもたくさん書いていきたいと思っています。...それにしても勤め時代、取材して書くことを鍛えられたことが今こんなに役に立つとは。あのころお世話になった方々に感謝の日々です。
その後1年ほど外国ですごし、ぼつぼつ書き続け、ようやく自分のスタイルをつかみつつある日々。いろいろな人との出会いや縁が不思議につながり、それを紡ぐようにして、いのちや平和をテーマにした作品が数冊生まれました。ノンフィクションの他にも、楽しい創作ものもたくさん書いていきたいと思っています。...それにしても勤め時代、取材して書くことを鍛えられたことが今こんなに役に立つとは。あのころお世話になった方々に感謝の日々です。