うどん屋のおっちゃん と はるかのひまわり

2005年5月の、はるかのひまわりの種まきの時(神戸市内)。真ん中のラガーシャツが藤野さん。ひまわりの種のまき方を説明する藤野さんを見て、わたしははじめ、藤野さんをてっきり消防関係の人だと思っていた。あとで挨拶して爆笑されたのが懐かしい。

                                         2019.1.18記

神戸には、わたしにとって、忘れられない人がいる。             

東灘区の本山第二小学校のすぐ近くでうどん屋さんを営んでいた藤野芳雄さんだ。東日本大震災で甚大な被害を受けた神戸の、復興の花として知られるようになったひまわり〈はるかのひまわり〉を震災の年の夏に見つけ、種をとり、震災後の瓦礫の街に種をまき、大事に育て続けてきた人。わたしはいつも、「おっちゃん!」と呼んでいた。

藤野さんなくして、〈はるかのひまわり〉はなかった。

のちに、藤野さん含め多くの仲間で毎年春に沿道にまくようになったひまわりの種。その育ち具合を気にして、毎日毎日、うどんの出前の行き帰りに苗の様子を見に行き、真夏にはカラカラになった苗に水をやり、大事に大事に育ててくれていた。「俺が自分でやりたいからやっているんだから」と、日焼けした顔でニカッと笑い、黙々と水をやり続けた。

藤野さんは、あの地震で倒壊した家の瓦礫の中から、はるかちゃんを引っ張り出した本人だった。二軒はご近所で、藤野さんのお嬢さんと、はるかちゃんが同級生だった。

多くは語らなかったけれど、藤野さんの姿や生き様からは、様々な場面でにじみ出る思いが感じられた。

わたしが時折神戸に出かける時に連絡すると、「飲みに行こうや!」と、近所の居酒屋でビールと焼き鳥をご馳走してくれて、いつも大阪ジョークで思いっきり笑わせてくれた。でもその合間、ほんの一瞬見せる「真」な眼と呟き。震災で負ったおっちゃんの心身の傷の深さを感じた。

この人のことを書かなければ、本当の神戸の復興の花「はるかのひまわり」の絵本にならない。わたしは、絵本の原稿に藤野さんの姿やことばを書き入れた。

震災から10年後の2005年のはじめ、絵本が完成した際に東京でお祝い会を開いた時、わたしは藤野さんと、はるかちゃんのお姉さんである加藤いつかさんを招待させていただいた。これまで〈はるかのひまわり〉を育ててきてくれたおっちゃんの労をねぎらいたい思いからだった。あの時の藤野さんの喜びよう。そういうおっちゃんやいつかさんの姿をみて、この絵本を書いて本当によかった、と心底思った。

 

その藤野さんは2012年11月20日、病でこの世を去った。まだ60歳だった。亡くなられる少し前に会って話ができたことは、わたしには何にも代えがたい大事な時間になった。

              *   

2019年1月16日、平成最後の歌会はじめで、神戸のひまわりのことが天皇陛下の歌に詠まれ、大きく報道された。これをもし藤野さんが聞いたら、どんなに顔を崩して喜んだだろう....とまっすぐに思った。

歌には、「はるか」という具体的なことばは入っていないけれど、確かにそのことを意味していたし、でも決してそれだけでなく、その後起こった災害、各地の被災地のこともあわせての様々なことや思いやが込められていたから。

藤野さんが見つけ、大切に育て続けたひまわりの種や思いが、長い年月を経て多くの人の勇気や希望や光になっている。

              * 

今も思い出すことがある。

絵本が出て二年くらい経ったころだったか、藤野さんから我が家に、すき焼き用の神戸牛のギフトが届いたことがあった。2007年の秋ごろだったろうか。

「こんな超高級なものもらって、どうしよう!?」

と、びっくりして電話をすると、

「奮発したで〜。何度もできんけど、ま、オレのしたいことしただけやから、食べてやー!」

電話の向こうのあの照れ臭そうな声が、今も耳に残っている。

 

二人で、空のことを話したこともあった。

「震災で、もう気持ちも落ち込んで下ばっかり見てた時に、ふと、たまたま空を見上げて、空が青いってことに気がついた瞬間があったんよ」

「おっちゃん、わたしもそういうこと前にあったんよ! 空がこんなに青くて広かったんだってハッと気づいた時にさ..........」

マジな話は本当に時折だったけれど、藤野さんとは、それ以上言わなくてもビシッと分かり合える瞬間みたいなものがあった。

 

藤野さんや、広島の「原爆献水」の宇根さんの姿を間近で長年見て、共に時間を過ごしたことが、今のわたしの「芯」になっている気がする。

言葉にはしにくいのだけれど、こういう様々なことを人や子どもたちにつなげ、伝えていくことが、自分の一つの役目なのかもしれないと、今、しみじみ感じている。

 

神戸の焼き鳥の味が、妙に懐かしい。

たくさんの親子連れも参加して、賑やかな種まきだった(2005年5月)
 



夏の想い出・釜石2


8/9、釜石市鵜住居にある、海を望む宿・宝来館前の松林で。
佐渡さん、そしてSuper Kids Orchestraのお子さん達の奏でる鎮魂のしらべは、波音と松葉をそよぐ風とともに、心の奥深く響きました。
●産經新聞 http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110809/ent11080912490009-n1.htm
●朝日新聞
http://www.asahi.com/national/update/0809/TKY201108090180.html
大したことはできませんが、お友達のイラストレーター・nishino misaさんと共に、ほんのちょっぴりでもこの催しのお手伝いができたこと、うれしく、そして誇りに思っています。



夏の想い出・釜石1


この夏は、例年に増して北へ西へ走り回っていました。夏の想い出をいくつか...。
8/8岩手県釜石市の商工高校体育館にて。釜石市内や遠野の高校生(ブラスバンド部)が、震災後の鎮魂のコンサートで同地を訪れた佐渡裕さんの計らいで、指導を受けている様子。約1時間半のエネルギッシュなユーモアたっぷりの指導。最後は音が立ち上がってくるような、盛り上がりのある演奏になりました。生徒さん達も、どれだけ刺激を受けたことか。これこそ復興のエネルギーになるんだ.....と、じんわり胸が熱くなったのでした。



箱崎白浜の漁師さん @ 釜石


釜石湾のちょっと北、大槌湾の箱崎白浜港で。漁師さんたちは、津波で流された浮き球を回収し、ひもで結わいて整頓していました。いつ漁に出られるかわからない状況でも、こうしてひたむきに今できることをやる......。
わたしは埼玉の農家生まれなので海のことはよくわからず、
:「これ、なんて言うんですか?」と尋ねると、
:「ああ、○玉ってんだ、姉ちゃん、わかる? アハハ」
:「えーっ!?  それにしては立派すぎるんじゃないですか?」
:「ホホーッ...ホントは浮き球って言うの」(一同笑)
また、
:「写真を撮ってもいいですか? 後で送るか持ってきますね」には、
:「おれ、そこの仮設だから。写真持って来たら声かけて」と。
はじめはちょっとこわそうに見えたけれど、じんわり温かくて、男臭くて、楽しいおじさんたち。でも今回の震災で、ご家族や友人たちを亡くされている方もいることを思うと.....「がんばって」なんてとても言えない。その代わりに、「また絶対来るから。写真持ってくるから待っててね!」と思い切り手を振ったのでした。(2011.7月)




ラグビーの街 


こちらも釜石駅わきの休憩スペースでみつけました。やっぱり釜石は鉄の街、ラグビーの街。大漁旗って、見るだけで元気が出てきます。(2011.7月)



改札にトラが…!? @釜石駅


これまでの釜石行きは〈被災地に入る〉という意識が強く、ガレキの街や壊れた堤防などにしか目がいっていなかったことに、今更ながら気がつきました。
今回、釜石駅の改札を出て、ふと後ろを振り返ったら、「.....トラ!?」 そう、これが釜石の郷土芸能「虎舞」の虎なんです。
「虎は一日にして千里行って、千里帰る」ということわざから、海に出る漁師の無事の帰りを念じて(思いを託して)踊られるようになったという虎舞。わたしには、津波被害に遭われた方々の思いと、この虎舞の由来が重なって、せつない気持ちになりました。
みんなの心の虎舞。舞が舞われる秋の釜石まつり、今年の開催はまだわかりませんが...もし行われるときには、ぜひ見に行きたいと思っています。(2011.7月)



鵜住居・根浜海岸の松林 @ 釜石


釜石から帰りました。今回の滞在中は台風の影響で曇天・雨が多く、少し寒く感じることもある日々でした。山に上がったときなどは、ジャンパーが必要なくらい。
さて、これは午後からやっと晴れた7/21の写真。津波にのまれた映像や、その後の女将さんの奮闘姿で多くの方に知られるようになった、根浜海岸の〈宝来館〉前の松林です。ピンクのお花は、砂浜に咲くハマナス。
この松林もすっかり海水に浸かったはずなのに、枯れずに青々としています。ハマナスもこの通り。うれしい。そして美しい。松の幹をなでながら、思わず「ありがとう。がんばっぺ、な」と語りかけてしまいました。
今回も、いろいろな出会いがありました。涙することも、そしてうれしくなることも。数々の美しい風景も。少しずつ紹介していきます。




願いをこめて 子ども達の短冊


釜石市内の小学校にて。校舎が津波にのまれ、もとの学校へ通うことができなくなった鵜住居地区の小学校。今は同市内の双葉小学校に間借りをして学校生活をしています。そんな子ども達が書いた、今年の七夕の短冊。中には、「ウルトラマンになりたいです」なんていうかわいいものもあって、ホッとしたり、クスッとしたりしましたが、多くの子ども達が今回の震災に関連したひと言を書いていました。
校舎のホールに一同に飾られた、二つの小学校の子ども達の短冊。色とりどりで、それはそれは見事でした。願い事をかなえてあげるのは、わたしたち大人、ですね。(2011.7月)



小学校に鯉のぼり@ 旧箱崎小学校 釜石


宝来館からさらに先へ進み、トンネルをぬけたところで目に飛び込んできたのが、この風景。旧箱崎小学校にかけられた、全国から届いた鯉のぼり。津波にのまれ、まだガレキが散乱するこの地域に、パッと花が咲いたように眩しく映りました。280軒ほどある集落の9割が被害を受けたという箱崎。多くが他へ避難し、人が少なくなった地域に、「みんな、帰ってこーい!」との願いをこめて飾ったのだと。
しんとした小学校跡に翻る鯉のぼり。...いや、鯉のぼりにはやっぱり子どもの賑やかな声が似合います。一日も早く、地域に人が戻りますよう...。
新聞の夕刊に、ほんの少し記事(釜石で見たこと感じたこと)を書く機会をいただきました。お時間のある方は、のぞいてみてくださいね。(7/11産經新聞・夕刊)
*箱崎の「希望の鯉」を泳がせている様子、上の小見出し(緑の文字)をクリックしていただくと、you tubeで観ることができます!



エネルギーいっぱい @釜石


親戚のHaru君(小1)です。毎日いっしょにご飯を食べ、いっぱいおしゃべりし、公園で遊んだり、宿題をみてあげたり、反対に肩をもんでもらったり...釜石にいる間は、彼のおかげで笑いが絶えない日々でした。子どもの無邪気さに救われます。でも、このHaru君の家も津波にのまれたのです。
「地震が来る前には、地鳴りがするんだよ」前にわたしに教えてくれたことがありました。6月のある朝、少し大きな地震があったとき、彼は朝ご飯を食べながら泣き出してしまったそうです。
先日は、「オレ、漢字書けるんだー!」と見せてくれたのが、「災」の文字。テレビや新聞で頻繁に目にして、読めなくとも覚えてしまったのか...。小さな子どもの心にも深く刻み込まれた今回の震災。今後の心のケア、フォローの重要性をひしと感じます。