うどん屋のおっちゃん と はるかのひまわり
2019.1.18記
神戸には、わたしにとって、忘れられない人がいる。
東灘区の本山第二小学校のすぐ近くでうどん屋さんを営んでいた藤野芳雄さんだ。東日本大震災で甚大な被害を受けた神戸の、復興の花として知られるようになったひまわり〈はるかのひまわり〉を震災の年の夏に見つけ、種をとり、震災後の瓦礫の街に種をまき、大事に育て続けてきた人。わたしはいつも、「おっちゃん!」と呼んでいた。
藤野さんなくして、〈はるかのひまわり〉はなかった。
のちに、藤野さん含め多くの仲間で毎年春に沿道にまくようになったひまわりの種。その育ち具合を気にして、毎日毎日、うどんの出前の行き帰りに苗の様子を見に行き、真夏にはカラカラになった苗に水をやり、大事に大事に育ててくれていた。「俺が自分でやりたいからやっているんだから」と、日焼けした顔でニカッと笑い、黙々と水をやり続けた。
藤野さんは、あの地震で倒壊した家の瓦礫の中から、はるかちゃんを引っ張り出した本人だった。二軒はご近所で、藤野さんのお嬢さんと、はるかちゃんが同級生だった。
多くは語らなかったけれど、藤野さんの姿や生き様からは、様々な場面でにじみ出る思いが感じられた。
わたしが時折神戸に出かける時に連絡すると、「飲みに行こうや!」と、近所の居酒屋でビールと焼き鳥をご馳走してくれて、いつも大阪ジョークで思いっきり笑わせてくれた。でもその合間、ほんの一瞬見せる「真」な眼と呟き。震災で負ったおっちゃんの心身の傷の深さを感じた。
この人のことを書かなければ、本当の神戸の復興の花「はるかのひまわり」の絵本にならない。わたしは、絵本の原稿に藤野さんの姿やことばを書き入れた。
震災から10年後の2005年のはじめ、絵本が完成した際に東京でお祝い会を開いた時、わたしは藤野さんと、はるかちゃんのお姉さんである加藤いつかさんを招待させていただいた。これまで〈はるかのひまわり〉を育ててきてくれたおっちゃんの労をねぎらいたい思いからだった。あの時の藤野さんの喜びよう。そういうおっちゃんやいつかさんの姿をみて、この絵本を書いて本当によかった、と心底思った。
その藤野さんは2012年11月20日、病でこの世を去った。まだ60歳だった。亡くなられる少し前に会って話ができたことは、わたしには何にも代えがたい大事な時間になった。
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2019年1月16日、平成最後の歌会はじめで、神戸のひまわりのことが天皇陛下の歌に詠まれ、大きく報道された。これをもし藤野さんが聞いたら、どんなに顔を崩して喜んだだろう....とまっすぐに思った。
歌には、「はるか」という具体的なことばは入っていないけれど、確かにそのことを意味していたし、でも決してそれだけでなく、その後起こった災害、各地の被災地のこともあわせての様々なことや思いやが込められていたから。
藤野さんが見つけ、大切に育て続けたひまわりの種や思いが、長い年月を経て多くの人の勇気や希望や光になっている。
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今も思い出すことがある。
絵本が出て二年くらい経ったころだったか、藤野さんから我が家に、すき焼き用の神戸牛のギフトが届いたことがあった。2007年の秋ごろだったろうか。
「こんな超高級なものもらって、どうしよう!?」
と、びっくりして電話をすると、
「奮発したで〜。何度もできんけど、ま、オレのしたいことしただけやから、食べてやー!」
電話の向こうのあの照れ臭そうな声が、今も耳に残っている。
二人で、空のことを話したこともあった。
「震災で、もう気持ちも落ち込んで下ばっかり見てた時に、ふと、たまたま空を見上げて、空が青いってことに気がついた瞬間があったんよ」
「おっちゃん、わたしもそういうこと前にあったんよ! 空がこんなに青くて広かったんだってハッと気づいた時にさ..........」
マジな話は本当に時折だったけれど、藤野さんとは、それ以上言わなくてもビシッと分かり合える瞬間みたいなものがあった。
藤野さんや、広島の「原爆献水」の宇根さんの姿を間近で長年見て、共に時間を過ごしたことが、今のわたしの「芯」になっている気がする。
言葉にはしにくいのだけれど、こういう様々なことを人や子どもたちにつなげ、伝えていくことが、自分の一つの役目なのかもしれないと、今、しみじみ感じている。
神戸の焼き鳥の味が、妙に懐かしい。