2月、山形『はしれ、上へ!つなみてんでんこ』絵本画展
2月に入ってから、東ソアリーナ&遅筆どう文庫(井上ひさしさんゆかりの劇場と文庫)のロビーで、『はしれ、上へ! つなみてんでんこ』の絵本画展が開かれています。
http://www.gen.or.jp/news/arena/entry-774.html
作秋、『ヒロシマ 消えたかぞく』写真絵本にまつわる図書館トークをさせていただいた関わりで、今回、東日本大震災に関わる絵本画の展示もさせていただくことになりました。
東日本大震災発災から、間もなく12年。
トルコ・シリアの大地震の被害の様子を報道でみるにつけ、当時のことを思い出します。
決して、人ごとではない...。
この展示に関して、今号の東ソアリーナ「びっくり箱通信」に、わたしも言葉を寄せています。
イベントの際に、文庫へお寄りの際に、ぜひご覧いただければ幸いです。(わたしは行けないのが残念...)
今後も、渡辺えりさんコンサート、上野千鶴子さん講演会、加藤登紀子さんコンサート、あの小平奈緒さんの講演会など、東ソアリーナでのイベントは充実しています。
わたしも、今年もまた行きたいと思っています。
Let’s go 山形!
トルコ、シリアの地震被害に
トルコ南部で起きた地震被害、トルコ、そしてシリアで被災された地域、人びとに一刻も早い救助・救援が届くことを願い、祈ります。
少しでも暖かく過ごせますよう、喉の渇きを潤し、温かい食事ができますよう。
さまざまな支援・協力の窓口info)
https://www.nhk.or.jp/shutoken/newsup/20230207e.html
https://readyfor.jp/projects/turkeyearthquake2023?utm_source
鋭意修業中 人形のいろいろ
仕事の合間を縫って、数年前から我がホームタウン(埼玉県鴻巣市)の伝統工芸「ひな人形」の頭師(かしらし)さんのところへお邪魔して、人形づくりの技術を少しずつ学んでいます。
どうしてもわたしが覚えたいと思っているのが、人形の頭の修理。
修理は、もともと頭づくりに使われている様々な素材の知識はもちろん、繊細な技巧と根気強さ、バランス感覚など、とにかく経験がないとなかなかできるものではないのですが、師匠のアドバイスをもらいながら初めて挑戦。
壊れた古い市松人形の頭を練習台に、少しずつ少しずつ。
まだ胡粉や膠(にかわ)でこしらえる塗り用の胡粉液の調合など、ちんぷんかんぷんですが、
まずはお顔の割れたりヒビが入って浮いている部分を丁寧にこそげるように剥がし、
そこに濃度の違う胡粉液を数回塗って盛り上げ、
乾いたところで丁寧に削ったり磨いたりして段差をなくし、
肌の色に合わせて調合した上塗り胡粉を何度も何度も塗っていく...
なかなか思うようにお顔を整える(盛り上げたり削ったりする)ことができず四苦八苦ですが、飽きることは全くなく、とにかく作業が面白くて熱中しています。
それにしても、師匠の技術は驚嘆の連続。
ひとつひとつ人形の状態(壊れ具合や汚れ具合など)が違うため、修理方法も毎回ゼロから考えての作業ですが、時間はかかっても、どれも見違えるように美しく仕上げます。
わたしもがんばりたい!
伊良部島産 どでかいカボチャ!
強風&極寒の先日、ピンポーン! の音と共に届いた大きな箱。
はて? 何かネットで買い物したっけ...?
伝票を見て「わあ、届いたー!!」と万歳三唱。
箱を開けると、頭くらい大きなカボチャがゴロゴロ。
これは、南の伊良部島(宮古諸島)の知人家族が丹精込めて育てたもの(お父さんの力作!)。恵比寿カボチャと九重栗カボチャ。恵比寿の方は、なんと一つ約2kgの重さ。
台風がもうそろそろ終わるか... という10月に大切に育てた苗を植えて、1月後半に収穫とは、さすが南国。
でもうっかりすると、苗を植えた後に台風が来ることも。そうでなくても12~1月は大雨大風があったりして、苗が土に埋まったり、苗や葉や実に傷がついて育ちに影響が出てしまったりと、ここまで育てるのも相当な苦労の連続。
しかも今年の宮古周辺は12〜1月の日照が少なかったそうで、
「最後の熟しが...」
と知人はぼやいていましたが、何をおっしゃるウサギさん... ではなくIkemaさん、
こんなに立派なカボチャ、そうはありませんよ!
農薬もできるだけ控えて育て、花が咲くころには夜明け前に畑に出かけて人工受粉作業をし、葉っぱの色や状態や枚数も毎日確認。1本の苗に1つだけ実らせる...
まるで我が子や孫を育てるように慈しんで、大きくしたカボチャさんたち。
煮物にカボチャサラダにほうとうに、美味しく、大事にいただきまーす!
・・・
2017年ごろから、毎に2回ほど伊良部島に長期滞在していたのが、コロナの影響でそれも見送り続けて3年。今年こそはと、機会をねらう日々。
島ラッキョウ畑の草取りとサトウキビの植え付けや収穫、またお手伝いさせてもらいたいです。
わたしにとって、どこへ出かけても畑仕事(海なら浜の仕事)を手伝うのが、行った先での日課のような。
そんなこんなしていると、自然とその地域の気候や風土や暮らし・歴史が見えてきて愛着が湧くのと同時に、わたし自身に引き出しが増えて、何より楽しくうれしいのです(宝物が増える感じ)。その時点で、もう知らない土地・初めての土地じゃなく、「関わりのある土地」に変わります。
こういう時が、「生きてるっていいなあ〜」と実感するひと時です。
ホントのハナシ
15、16年前くらい、地元にできたスポーツクラブに通っていたことがありました。
フリーになって絵本を1〜2冊出したものの、次に何をしていいか迷っていた時期だったような。
もっぱらヨガ教室と水泳に参加。
が、ほとんど仕事らしい仕事もしていないのに(多少の編集仕事と実家の農家の手伝いはあったものの)、出て行くのはお金ばかり。
うーん...... う....ん....
そしてある日、ハッと閃いたのが「畑仕事!」
その前からやっていたけれど、今ほど熱心ではなかったような。
実は、連れ合いは「オレは狩猟民族系だから、畑仕事みたいな地味な仕事は領分違い」と長年言い続け(今は徐々に気持ちも軟化)、わたし一人で広い畑に出て作業するのがなんとなくさみしいというか、ご近所の目が気になるというか。。。そういう気持ちがうっすらあったのも事実。
でも、懐事情が切実になったあの時は、妙にスパッと割り切れて、
(そうだ、畑耕したり畝作ったり、草取りとか全部人力でやれば結構な運動になるぞ。畑もきれいになるし野菜も採れて一石二鳥じゃん? そうだそうだ、お金かけてスポーツクラブに通う必要ない!)
それ以来、「体を鍛えるため」というはっきりした目的ができたので、よそ様の目も何にも気にならなくなり、ひたすら畑仕事に勤しむようになりました。
そうしたら、前よりずっと野菜はもちろん、小さな草花や虫やカエルやケラやミミズやいろんなものに目がいくようになり、季節ごとの風や日差しや田畑の変化にも敏感になり、それが面白く愛おしくなって、ついでにとっても体力がついて(もともとあるのですが)、鎌や鍬や鋤の使い方も妙に上手くなったし、野菜は採れるし......
なーんだ、わたし、スポーツクラブに通う必要なかったんじゃん!
ーーー 我、悟る ーーー
まあ、畑仕事にプール(泳ぎ)はないけれど.....
田植え時期には水が入ったヌルヌルの田んぼに入れば、脚に負荷がかかってそれはそれで足腰の鍛錬になるし。
というわけで、畑仕事をしていると体ポカポカ、頭スッキリ
(原稿に行き詰まったときは一番の気分転換→たぶん転位行動)、
満月近くなると、月明かりで暗くなっても畑の草取りをしています。
(そういう時こそ、結構面白いアイデアが湧いたり)
人って、困るとなんとか新しい策を思いつくんだなぁ〜
その後、本は何冊か出ましたが、お財布状況はさして変わらず。
ですが気持ちと体は妙に元気で、それさえあれば、なんでもできるような気がしています。
割と単純。
かがやくキンカン と...
庭の南面に放ったらかしにしているキンカン。
鳥さんたちが突く前に、失敬して...
沖縄の宮古島のとなり、伊良部島の知人宅へお米といっしょに送る予定。
オレンジ色がまぶしい!
お昼の準備でちょっと畑へ。
ニンジンさん、なんでわざわざ、こんなめんどうな脚に...
畑へ出ると、ちょっとのつもりがついつい長居。
いろんなアイデアが思い浮かぶのも腹が決まるのも、わたしの場合、たいがいが畑仕事中。
あ、そこの野菜の支柱のてっぺんに留まったモズが、こっちを見てる...
畑はのどかです。
1.17 はるかのひまわり
阪神淡路大震災後の、復興・希望の花
はるかのひまわり
たいせつな花
はるかちゃん、のんちゃん、しょう君、
藤野さん、白木さん、
多くのみなさん、
空の上から、みんなの健康、安全、暮らしを
見守っていてください
わたしも、それぞれがだいじないのちを守るために
何ができるか、どうしたらよいか
自分の立場から精一杯伝えていきます
今年もひまわりを
あちこちで咲かせますね
祖父の古い写真
年が明けて数日後、実家の母から
「これ、お願いできる?」
と渡された一枚の写真。母の父親(わたしからすると母方の祖父)の、若いころの写真だった。複写してほしいという。
暮れに母が実弟に会ったとき、持っていたものを借りてきたらしい。
「おじいちゃん、若いころはキリッとした顔してたねえ」
母がポツリ。
祖父・卯一郎は、わたしが小6の秋に亡くなった。当時80代後半。
その記憶はとてもぼんやりしたもので、夏、古い農家の二階(昔、蚕をやっていた広い部屋)で上半身は裸、薄手の股引みたいなのをはいて、片膝ついて団扇をパタパタやっていた姿だ。だいぶやせて動作もゆったりしていて、わたしが二階に上がって顔を見せると、
「おお....... かずこ... かぁ....」
と、顔をこちらに向けて、にっこりしたのかどうかもよくわからない表情で声をかけてくれた。卯一郎おじいちゃんとの会話で覚えているのはそれくらい。でもおだやかな、優しい声は耳に残っている。
とはいえ同居していた父方の若々しい祖父と比べると、子ども心に(卯一郎おじいちゃんは、おじいちゃんっていうより、ひいおじいちゃんみたいだな)と思っていた。
その祖父の、若かりしころの写真の表情は思ったより凛々しくて、わたしの中で印象がガラリと変わった。隣の軍服の若い青年は、祖父の年の離れた弟だという。
弟が戦争に行く前に、記念に撮ったものか。メモも何もないのでいつ撮ったものかはっきりわからないが、多分祖父が40代前半か...。
養蚕と畑と米作りで朝から晩まで、とにかく働きづめだったという祖父。初めに結婚した妻とは二人の娘をもうけるも、その妻は病気で亡くなり、のちに結婚した相手がわたしの祖母になる(母の実母)。親せきの口利きで夫婦になるも、年の差は約15才。どちらも苦労が多かったようだが、二人の間に四人の子が生まれる。
当時は暮らしも豊かではなかったと母に聞いていたので(母は高校に行かせてもらえなかった)、こんな紋付袴で膝には帽子まで置いて写真を撮るハイカラな印象は、ほんとうにびっくりだった。帽子は写真館で借りたものかもしれないけれど...
『ヒロシマ 消えたかぞく』絵本づくりで鈴木六郎さん一家の写真に出会ってから、色々な古い写真に目が留まるようになっていたけれど、灯台下暗し。我が家の、わたしにつながる写真はまだちゃんと見ていなかった...。
一方、わたしの父方はというと、曽祖父は大正期にアメリカへ渡った移民だ。家族を置いて一人渡米、事情があって亡くなるまで日本に帰国することはなかった。
一時期、この曽祖父のことが気になって移民のことを調べたり、アメリカまで調べに行ったこともある。たしか実家の物置の奥に、その曽祖父関係の写真があったような...
日々のことに追われて、この15年ほど、それもほったらかしにしていた。
今の自分が存在するのは、その人たちの存在があったからだ。
卯一郎おじいちゃんのことも、アメリカへ行った曽祖父のことも、調べるなら今だ... そんな気がしている。
滑川町展望台へgo!
お天気続きの先日の連休、子どもの頃によく出かけていた文殊寺(熊谷市江南)へ、三十年ぶりにお参りに。
そのまま少し足を延ばして、「ちょっと短い山登りでもするか」と滑川町へ(わたしはこれまでほとんど行ったことがない地域)。
埼玉県比企郡滑川町伊古 にある二ノ宮山展望台。いったいこの傾斜は何度だ!? (実際この地点は22度程です)
とはいえ、小さな広場のような駐車場に車を止めて山道に入ったら、いきなりの急勾配(はじめは12度程)で、足は上がらん、心臓はバクバク。たった200メートル程度なのに...
頂上について展望台へ上がると、東西南北スカッと開けた景色。
秩父まで行かなくても、こんな良い眺めとウォーキングロードがあったんだなあ。
季節が良くなれば、きっといろんな虫やらカエルやらがたくさん出てきそうだなあ〜。また自然観察に来よう。
体力づくりはすべての基本。
取材に出ると、とにかく大荷物を持って歩かないと始まらないので、足腰鍛錬は必須です!