遅筆堂文庫 図書館トークの様子 11.19
遅筆堂文庫・図書館トーク 無事終了
11/19の午後、無事、図書館トークを終えました。
この時期はいろいろイベントが重なる中、ご参加くださった山形のみなさん、ほんとうにありがとうございました。
『ヒロシマ 消えたかぞく』絵本の朗読、写真を紹介しながらの絵本ができるまでのいきさつ、その後の思わぬ出会いや展開など、じっくりお話しさせていただきました。
その後も質問や感想などあり、わたしがすっかり説明し忘れていたことなどお話しし、2時間びっちりのトークになりました。熱心に聞いていただいて、原爆の被害や、こういう家族があったことを少しでも知っていただくことこそが、何より大事なことだと思っています。わたし自身、実は拳を振り上げて大きな声で述べることは苦手で、でも自分のやれることや方法(本作りやお話し)で地道にやっていくことこそが、最も自分らしく、また小さいけれど大事な種まきだと思っています。
25年以上前(わたしが出版社勤務時代)から、細々と関わりのあった山形のこの場所でお話会ができたことは、感慨無量でした。
11月いっぱい、遅筆堂文庫と劇場をつなぐスペースで、『ヒロシマ 消えたかぞく』の写真パネル展も開かれていますので、文庫へ見える方、劇場へおいでの方、お菓子を買いにこられた方など、ぜひご覧いただければ幸いです。
p.s.
スマホのバッテリーが突然ダメになり、ショック...
山形や遅筆堂周辺の様子などは、また後ほどアップします!
山形にきています
昨日お昼前に出発し、山形へ(上山)。
今日は遅筆堂文庫・山形館で、午後から図書館トークです。
『ヒロシマ 消えたかぞく』とそのあしあと
というタイトルで、お話しさせていただく予定です。
山形は紅葉も終盤。昨日は道すがら、山が赤茶色に染まっていました。
午前中、斎藤茂吉記念館や生家に寄りながら、井上ひさしさんゆかりの遅筆堂文庫を目指します。(かなりご近所)
うれしい便り 岩手のKちゃんから
先日、とってもうれしい連絡がありました。
岩手・釜石市出身のKちゃんからです。今、岩手県内で看護師をしているKちゃんの、Happy wedding dayの報告でした。
Kちゃんとは2011年(東日本大震災発災後)の7月、釜石東中学校で出会いました。(当時、この学校の校舎は津波にのまれて使えなくなってしまったため、生徒達は市内の別な学校に間借りする形で過ごしていた)
震災後、わたしは、大津波から逃げ切った子ども達のことを何としても記録に残したいと釜石に通い続け、Kちゃん達が通っていた小中学校(釜石東中学校と鵜住居小学校)の子ども達と息の長い交流をしていました。
中でも中学2年生だったKちゃんは、発災直後のこんなエピソードをわたしに語ってくれた子です。
「大地震の後、こわくてこわくて泣きそうだったんだけど、高台へ向かって走って逃げるときに、小学生の子がギュッとわたしの手を握ってきたんですね。
その時(わたしが泣いたら、この子がもっと不安にさせちゃう。しっかりしなくちゃ)
と思ってギュッと握り返して、「だいじょうぶだよ、だいじょうぶ」と声をかけながら逃げたんです...」
その後、わたしは小学生の子ども達にも、大地震直後の避難状況を聞き取りしています。小4のある子は、こんなふうに答えてくれました。
「こわくてこわくて、足がガクガクして歩けなかった。そしたら中学生のお姉ちゃんが手をギュってにぎってくれて、【だいじょうぶだから、ね!】って言ってくれたんだ。それですごくホッとして、いっしょに走ってにげられたんだ。お姉ちゃんの手、あったかかった...」
この小学生が手をつないだのが、Kちゃんだったかどうかはわかりません。あとで小学生達に「震災の時に、誰と手をつないで逃げたか覚えてる?」と質問したことがあったのですが、覚えている子はほとんどいませんでした。発災直後、それくらい緊張、錯綜していたことが想像できます。
でも、そうやってみんなが高台へ向かって逃げたのです。
中学生は小学生に手を握られたことで、しっかりしなくちゃとハッとし、かたや小学生は中学生に手を握ってもらったことで、心底ホッとした。身を寄せ合うことで、互いが互いに励まされ、勇気づけられ、助けられていたのです。
このことは、絵本『はしれ、上へ! つなみてんでんこ』の中で、「緊急時の積極的な避難・自分で考えて行動する」ことの大事さと同様、わたしが最も伝えたかったメッセージの一つです。
それを、わたしに本人の言葉で伝えてくれたのがKちゃんでした。
Kちゃんが岩手から上京して関東の看護学校へ通い始めて間もないころ、まだ生活に慣れなかったのか、「指田さん、いっしょにお昼ご飯食べてもらえます?」と電話をくれたことがありました。
一も二もなく、「よっしゃ!」とJR大宮駅で久々に会い、ご飯を食べたのも、もう5年以上前...。
わたしにとっては、こんなふうに取材や旅で出会った人たちが、この上ない宝物です。
*
Kちゃん、立派な看護師さんになったね。ご結婚おめでとう!
二人で支え合い、楽しく豊かな人生を歩んでね。
今日の朝刊・ひと欄に
お恥ずかしながら、本日の朝日新聞の朝刊で紹介していただきました。
記者の大西さんは、先日(11/4)の広島での会談も取材してくださった方です。
(ヒロシマの原爆で大切な家族やお身内を亡くされた、現在90歳のお二人を引き合わせる機会を持ったこと:11/5の朝日新聞夕刊、11/10の広島版で掲載)
出会った人たちや事柄に心動かされ、目の前のことを精一杯やっているだけですが、記事を見て、(そうか、わたしって、ヒロシマと東北の被災地を行ったり来たりして、それが自分のベースになっているんだ)と、「我」を客観視する機会にもなりました。
実は他にも、神戸、沖縄・宮古や伊良部島も時折出かけています。水俣へも、そして移民のことを調べに(曽祖父が移民)、アメリカ西海岸にもまた行きたい。
55歳を過ぎたばかり、このごろめっきり白髪が増えてドキリとしますが、畑仕事で基礎体力をキープして、これからもあちこち出かけます。
来週後半からは、山形〜岩手。
どこかで黄色いリュックの小太りおばさんを見つけたら、お声をかけてくださいね!
まだまだ収穫物あり
5日間出かけていて放ったらかしの畑に出てみると...
もう寒さでダメかな〜と思いつつも、これだけ収穫。
ナマコくらいのゴーヤ、皮が固くなったミニトマト、ピーマンはまだいくつか採れそうだけれど、ナスはさすがにこれが最後。
大根は初収穫。葉っぱは茹でてお味噌汁の具や炒め物に。
白い根っこの方は、今日の晩御飯のおでんに入れて...
重いニュースが多くてうつうつする中、畑に出ると気持ちがホッ。
プランターでもミニ鉢でも、貝割れ大根でも、皆さんぜひ、野菜を育ててみてください。
毎日発見と喜びがありますよ。
ヒロシマでの対談が記事に(朝日新聞11.5夕刊)
11/2〜6まで、広島へ出かけてきました。
今回の一番の目的は、『ヒロシマ 消えたかぞくのあしあと』本で紹介した鈴木恒昭さんと奥本博さんを引き合わせ、昔話を心ゆくまでしてもらうことでした。
お二人とも90代で、奥本さんは市内の本通にお住まいですが、恒昭さんはお隣の府中町在住。取材時はそれぞれのご自宅を訪ねてお話を聞いたり、喫茶店でお茶をしながらお話ししたりと別々にお会いしていました。
ただ、取材を進めるうちに、〈年齢が一つ違いで二人とも袋町小学校卒業〉、〈どちらも少年時代、広島の繁華街だった本通り沿いで友達やいとこたちと走り回って遊んでいた〉など他にもいくつも共通点があることがわかり、今まで面識はなくても、話をすれば共通の思い出話で良い時間が過ごせるのでは...と感じていたからでした。
しかもお二人とも、大事な家族やお身内を原爆で亡くされている。
また奥本さんは、時おり「鈴木さんとお会いしてみたいものです」と言っておられ、本が完成した今、取材でお世話になったお二人を引き合わせる事こそ、わたしの役目だと思いました。
貴重な時間をわたしだけのものにしてはいけないと思い、新聞社・通信社などにもお声をかけさせてもらいました。
・・・
お二人の体調も考えて、2時間弱... と考えていましたが、会うなり「袋町小学校校歌(戦時中は国民学校)」を元気に口ずさみ、当時の先生のことや、流行った遊びのこと、新天地(繁華街)の怪しく面白かった大道芸の話など思い出話に花が咲き、気がつけば約3時間。
話の中では、原爆や家族・親せきが亡くなった時の心情、また現在の世界状況(ロシアのウクライナ侵攻など)を、原爆を体験した者としてどう感じているかなど、大事なお話も聞くことができました。
記事は、11月5日(土)の朝日新聞夕刊に掲載されました。また朝日新聞デジタルでも読むことができます。ぜひご覧ください。
https://www.asahi.com/articles/ASQC543LLQC2UTNB017.html
p.s.
対談で、新たにわかった事実がありました。奥本さんのすぐ下の妹さんと、恒昭さんが慕っていた従姉妹が、広島県女(当時の広島県立広島第一高等女学校)の1年生(同窓生)だったことです。
もしかしたら、クラスが同じだったかもしれない。仲の良い友達になっていたかもしれない。
でも.... 原爆はその二人のいのちを奪いました。当時、県女の生徒たちの多くが市内の建物疎開作業に駆り出されていたのです(県女の1年生だけでも223人が死亡)。どちらの家族や親族も焼け跡を必死で探し歩いたそうですが、行方不明のままです。
二人が知り合っていたかどうかは、もうだれにもわかりません。
思い出を語る時間は、温かい思いになったり、胸がしめつけられる思いがしたり。複雑な気持ちですが、熱心に語るお二人のお顔を見ていて、(やっぱりこの時間を作ってよかった)と思った秋の一日でした。
草取りと ことば
秋晴れの良い日。今日も午後から畑へ。
修行のように黙々と草取りをしながら、ぐるぐるグルグル、頭の中ではいろんなことを考えています。
堂々めぐりをしているようで、ふっと思わぬひらめきがあったり、むかーし昔のことを思い出して、(あの時、あの人はこう言ったけど、それって別な意味があったのかな...)などとドキリとしたり。
体を動かしながらなので、妙に「思い」に執着することなく、風が吹くように水が流れるように、頭の中をサラサラと物事が流れていく感じが、わたしにはなんだかとても心地よいのです。
ことばのことも、よく考えます。
最近よく自分の中でめぐるのは、
「必死」じゃなくて「ひたむき」っていいな
「正しいこと」と「大切なこと」は違うよな.....
なんでもないことのようですが、文章を書く人間にとっては、結構こういうことは大事な気がします。
ついつい草取りに熱中して、固まった腰を伸ばそうと顔をあげると、目の前をトンボがスーッ。
・・・
来週は広島。秋空をあおぎながら、お世話になったあの人、この人、あちらの世界に先に旅立たれた方々のお顔を思い浮かべています。
特に、本でも書かせていただいた、兒玉光男さんのことを思う今日です。
脱穀作業!
昨日は快晴だったので、やっとのこと、手刈りした稲の脱穀作業を。
ミニ田んぼにビニールシートを敷いて、二人で重さ30kgの足踏脱穀機をえんやこら。
非常に原始的な方法ですが、手間がかかろうが疲れようが、稲がどうやってお米になっていくかをちゃんと意識しておきたくて、こんなことをやっています。
この脱穀機は、足で手前(下)のペダルを踏むと中のボツボツ突起があるドラムがぐるぐる回る仕組み。この口の部分へ穂を下にして稲束を突っ込むことで、ボツボツに引っかかった穂の粒(モミ)がしごかれる形で、向こう側にバラバラ落ちるわけです。ゴロンゴロンとドラムが回る音に、脱穀時のガーッガーッという音はちょっとうるさいけれど、仕方ない。
二人で結構汗だくになって約2時間。こんなことやってる人はもう滅多にいないので、遠目で眺めていくご近所さんもちらほら。
初めてこれを使って家の駐車場で作業をした3年前は、「いや〜懐かしい。昔はこうやって脱穀したなあ。今時こんなの見られると思わなかった」と声をかけて来る方も。
この後、もう少しモミを乾かして適度な水分になったら、「もみすり」をする予定です。
疲れたけれど、「米、作ってるぞ!」って達成感抜群。
ヒロシマの貴重な証言 平和資料館の動画
『ヒロシマ 消えたかぞく』、『あしあと』本の取材でお世話になった、鈴木恒昭さん。鈴木六郎さん一家のご親せきです。
恒昭さん自身も、あの原爆を体験されています。当時中学2年生。
広島平和記念資料館では「被爆証言ビデオ」を作成していて、つい先日、恒昭さんの証言もyoutubeで観られるようになりました。
ご自身の体験、そして六郎さん一家についても語っています。
https://www.youtube.com/watch?v=P01X86jLP7U
わたしもお宅にお邪魔すると、いつもこんなふうに恒昭さんのお話を聞かせてもらっています。時に身振り手振り。
情感あふれる恒昭さんのお話を聞いていると、わたしは、頭に浮かぶ当時の風景に彩りがほどこされていくような印象を受けます。
『消えたかぞく』絵本がああいう形で完成したのも、恒昭さんの人間味があったからこそと、改めて感じています。
記録って本当に大事。それぞれが、その時々でできる様々な方法で残すことが、戦争であれ原爆であれ人であれ、後にその「対象」を立体的・多面的に捉える基盤、貴重な材料になると、わたしは信じています。